【二百三十】承応の鬩牆 その三十九 処分案の変更
2021.02.25
准秀上人は、明暦元年(一六五五)七月十六日、井伊直孝に自身の処分案についての覚書を提出しました。准秀上人が直孝に提出したといっても、この処分案は直孝が作成したもので、准秀上人はそれを写して提出したのでした。准秀上人の処分案は、学寮は取り壊されるのであるから、以後、学寮についてはもうとやかくいわないというもの、それに、准秀上人は越後国に逼塞し、准秀上人の妻子は天満興正寺で過ごすというもの、そして、准秀上人が門下に下した本尊や親鸞聖人の絵像などは取り返して、直孝の側に提出するというもの、との大きく三つの条項からなるものでした。
直孝はこの准秀上人の提出した処分案の覚書を、七月十七日、大老の酒井忠勝に見せました。次いで、直孝は覚書を良如上人にも見せました。ところが、良如 上人はこの処分案の内容に不服を唱えたのです。
准秀上人が提出した覚書では、准秀上人は越後国の長岡の正覚寺に逼塞するとなっていました。
任御異見、拙僧越後国長岡正覚寺逼塞之上ハ、妻子之儀、如御指図、大坂天満之寺ニ隠家之躰ニ指置、閉門ニ申付(『浄土真宗異義相論』)
覚書には、直孝殿の意見に従い、私は長岡の正覚寺に逼塞し、妻子は、お指図のように、天満興正寺を閉門とし、隠棲させるとあります。この長岡の正覚寺に逼塞するということに良如上人は反対したのです。良如上人は逼塞するなら、寺ではなく、一般の在家にすべきだと主張しました。
正覚寺は准秀上人の弟である蓮乗師が入寺していた寺です。蓮乗師は准秀上人より八歳下の弟です。蓮乗師は正覚寺に入寺したものの、若くして亡くなります。蓮乗師は寛永八年(一六三一)、十七歳で亡くなりました。したがって、この時には蓮乗師はすでに亡くなっています。しかし、亡くなっているにしろ、正覚寺は准秀上人と関わりのある寺です。そうした寺にいるのなら、処罰とはならない、と良如上人は思ったのです。
正覚寺は本願寺派の寺院として、いまも新潟県長岡市にあります。この正覚寺は越後国の長岡藩の初代藩主、堀直寄と関係の深い寺です。堀直寄は長岡藩主となる前は信濃国の飯山藩の藩主でしたが、直寄と正覚寺の関係はこの時に始まります。当時、正覚寺は飯山藩の領内である信濃国水内郡若槻荘にありました。その後、直寄が長岡に移ると、正覚寺もともに長岡へと移りました。直寄は、その後、さらに越後国の村上藩の藩主となりますが、それにともない、正覚寺も村上へと移っています。そして、直寄が寛永十六年(一六三九)に没したあと、正覚寺は、再び、長岡に戻ったのだと伝えられています。正覚寺には江戸時代初期に描かれた直寄の母である妙泉院の絵像も蔵されています。こうして有力な武士と関係が深かったことから、蓮乗師は正覚寺に入寺したのだといえます。興正寺と正覚寺のつながりはこの蓮乗師によるつながりだけで、正覚寺は興正寺の末寺であったわけではありません。
良如上人はこの正覚寺のことに加え、閉門となる寺についても異を唱えています。処分案の覚書では、准秀上人は越後に逼塞し、准秀上人の妻子は天満興正寺を閉門として、隠棲させるとありました。准秀上人は越後に行くのですから、京都の興正寺が閉門となるのは当然のことで、これは覚書の別の所に明記されていますが、それでは閉門となるのは京都興正寺と天満興正寺だけということになります。良如上人はこのほかに興正寺の各地の御坊も閉門にするように求めました。
良如上人の要求に対し、直孝は畿内にある興正寺の御坊だけを閉門にしたらどうかと打診しましたが、良如上人はあくまで各地の興正寺の御坊の閉門を求めました。各地の御坊のなかでも、良如上人が強行に閉門を要求したのは讃岐国の高松御坊です。
高松城下之通寺ハ、色々申分有之事候間、閉門無之候而者、何共迷惑申候(『浄土真宗異義相論』)
良如上人は、高松御坊についてはいろいろといわなくてはならないことがあり、この寺を閉門にしなくてはこちらが困ると述べています。高松御坊をはじめ讃岐の興正寺の末寺が、良如上人と准秀上人の争いに際し、西本願寺に強く反抗していたことがうかがえます。
これらの良如上人の要求をうけ、直孝は良如上人の意向に沿うように処分案を変更し、准秀上人にそれに同意するように求めました。しかし、今度は准秀上人の方が同意することを拒否しました。良如上人の意向を重んじる直孝の態度が気に入らなかったため、准秀上人は同意することを拒否したのです。
(熊野恒陽 記)