【二百三十二】承応の鬩牆 その四十一 処分への準備

2021.04.22

 明暦元年(一六五五)七月二十日、准秀上人が自身の処分について記した覚書を井伊直孝に提出したことにより、准秀上人の処分の内容が決定します。これ以後は処分の実施に向けた準備が進められていきます。

 

 准秀上人の処分として、准秀上人は越後の高田藩領の今町の在家に逼塞するということになりましたが、直孝はまずこれについての話を進めていきました。高田藩の藩主は松平光長です。直孝は松平光長に准秀上人が高田藩の領内に逼塞することを了承してもらうように求めました。光長の了承はすぐに得られました。

 

 井伊直孝は准秀上人と交渉するにあたって、松江藩の藩主、松平直政を准秀上人との間に立てて交渉をしましたが、この松平直政と高田藩の藩主、松平光長は叔父、甥の関係にありました。光長の父は忠直といい、忠直の弟が直政です。忠直、直政の父は徳川家康の二男である結城秀康であり、松平直政は徳川家康の孫、松平光長は徳川家康の曾孫ということになります。井伊直孝が松平直政を間に立て准秀上人と交渉したのは、毛利家を介し、准秀上人と直政につながりがあったからです。准秀上人の母、妙尊尼は長州藩の藩祖、毛利輝元の養女として、准秀上人の父である准尊上人と結婚しました。毛利輝元の長男は毛利秀就ですが、直政の姉である喜佐姫は、この秀就の妻でした。松平直政と高田藩の藩主、松平光長は叔父、甥の関係でしたが、一方でこの二人は毛利家を介してもつながりがありました。松平光長の妻は毛利秀就の娘の土佐姫です。直政にとっては土佐姫は姪にあたります。直政の甥が直政の姪と結婚しているということになります。そして、毛利秀就の娘を妻としているということから、松平光長は准秀上人ともつながりがあったのです。

 

 准秀上人の逼塞する地が高田藩の領内になったのはこうして藩主の光長と准秀上人につながりがあったためだと思います。准秀上人は、当初、正覚寺に逼塞することになっていました。これに対し、良如上人が不服を唱え、今町の在家に逼塞することになったのです。当初の逼塞する場所とされた正覚寺は准秀上人の弟が入寺していた寺です。正覚寺なら、准秀上人にとっては逼塞する場所として、都合の良い場所です。良如上人が不服を唱えるのも、もっともです。それが今町の在家になったのですが、正覚寺があるのは長岡藩の領内であり、今町の在家は高田藩の領内です。同じ越後国であっても藩が違っています。正覚寺が適さないのであれば、普通なら同じ長岡藩の領内の在家になるはずですが、それが違った藩の領内の在家になっているのです。正覚寺が逼塞の場所となったのは准秀上人の側の意向を汲んだ上で井伊直孝の側が決めたものとみられますが、今町の在家というのも准秀上人や准秀上人と関係のある松平直政の意向をうけて決められたものと思われます。直孝は松平光長に宛てた書状で今町の在家について触れていますが、それには准秀上人の記した処分の覚書に今町の在家と記してあるので、准秀上人をそこに逼塞させるようにしてもらいたいと、直孝自身は今町の在家については関知していないような書きぶりで文が綴られています(『浄土真宗異義相論』)。直孝の側ではなく、准秀上人の側の意向で今町の在家と決められたことをうかがわせます。藩主である光長が准秀上人とつながりがあることから、准秀上人の側が高田藩の領内の地を逼塞の地に選んだのです。

 

このほか、処分の条項の一つには准秀上人が門下に下した本尊や親鸞聖人の絵像などを取り返し、直孝の側に提出するというものがありましたが、これについても話が進められています。准秀上人に仕えた下間重玄から直孝へ、七月二十二日付で、准秀上人が下付した本尊や絵像などの種類とそれを下した寺、そして、座配を許した寺などの記録が差し出されています。この記録は滞在中の江戸で書かれたもので、遺漏もあることから、こののち漏れた分を書き加えた記録が提出し直されることになります。この記録によると、下付物は木像の本尊や、親鸞聖人、聖徳太子、七高僧、蓮如上人の絵像など、計五十二点であり、それらが四十七の寺、道場に下されています。そして、興正寺下にあっての階位のことである座配の方は四十の寺に許されています。本尊や絵像などを下されたのは、肥後国の末寺が多く、四十七の寺、道場のうち二十四の寺が肥後の寺です。座配が許されたのも四十の寺のうち十三の寺が肥後の寺です。月感の地元である肥後の諸寺がもっとも強く、月感、および興正寺を支持し、西本願寺と対抗したということが知られます。

 

 (熊野恒陽 記)

PAGETOP