【二百三十四】承応の鬩牆 その四十三 最後の主張
2021.06.21
准秀上人の処分に向けた準備は進み、あとは准秀上人が実際に越後へと向かうだけになりました。准秀上人が江戸を立ち、越後に向かうのは明暦元年(一六五五)七月二十九日のことです。その出立の前日の二十八日、准秀上人は良如上人との争いについての自分の意見をまとめた書付を記していました。書付は井伊直孝に宛てられたもので、出立後、少ししてから直孝のもとへと届けられます。書付には准秀上人が最後に直孝にいっておきたかったことが記されているのです。
准秀上人が書付で述べているのは、興正寺と西本願寺の争いが続いた原因はすべて西本願寺の側にあるということです。まず、准秀上人は、西本願寺の教義は、近年、誤ったものとなってしまっていると記します。
西本願寺仏法之意趣、近年、開山之正意と相違仕、宗儀之領解、混乱被致候(「興正寺文書」)
争いのそもそもの原因はここにあるというのです。天満に移ったのもそのためだと准秀上人はいいます。自分が西本願寺のある京都の七条の地にいるなら、興正寺の門下への教化にも影響が出るというのです。
一所ニ罷有候而ハ、拙僧門下ヘ教化之儀も区々ニ罷成候所も令迷惑
悪いのは西本願寺なのです。准秀上人の述べる争いの原因はこれだけではありません。准秀上人が天満に移ったのち、西本願寺は各地に使僧を派遣し、興正寺門下の坊主衆、門徒衆に准秀上人に従わないということを誓う誓紙を提出させています。この誓紙は西本願寺が雛形を用意し、坊主衆、門徒衆がそれに署名を加えるというものでした。准秀上人は西本願寺はこうして興正寺の末寺を取り上げたのだと述べています。
使者、使僧を以、案文ヲ下し、誓紙、血判申付、拙僧門下ヲ押取被申候
門下を押し取ったとありますが、押し取るとは無理に奪い取るということです。西本願寺の強引なやり方を批判しているのです。准秀上人にとって、末寺を取り上げるという行為は許しがたいことでした。この末寺を取り上げたということが争いの大きな原因です。加えて、西本願寺は興正寺の末寺を取り上げていながらも、幕府をはじめ良如上人と准秀上人の争いの調停にあたった武家や公家の実力者には、興正寺の末寺を取り上げてはいないといっていました。准秀上人はこうした西本願寺の対応をも批判しています。
書付には争いの原因を記すとともに、興正寺と西本願寺の関係についても記されています。西本願寺は興正寺を末寺として扱い、末寺であるのに本寺に逆らっているとして訴えました。准秀上人はこれに対し、興正寺は単なる末寺ではないと述べています。単なる末寺でないから、西本願寺の訴えは見当違いの訴えだと主張しているのです。准秀上人は興正寺について、興正寺はもともとは佛光寺であり、元来の佛光寺が分かれてのちの興正寺と佛光寺になったのだと記します。
我等儀者、根本京都佛光寺ニ而御座候、六代已前蓮教と申代ニ・・・国々之末寺共召連、佛光寺を立退、本願寺一流ニ罷成候
蓮教上人が本願寺の教団に参入したことが記されていますが、蓮教上人は国々の末寺を召し連れて本願寺と一つの派になったのだと述べられています。江戸時代、西本願寺は、興正寺は蓮教上人がわずかな門下とともに蓮如上人のもとに帰参してできた寺だといっていました。これに対して興正寺は、一貫して、蓮教上人は多くの門下を引き連れて佛光寺を去ったのであり、興正寺と本願寺とは連合するようなかたちで一つの派になったのだと説いていました。西本願寺が蓮教上人はわずかな門下とともに帰参したとするのは、興正寺は蓮如上人の弟子が開いた本願寺の末寺に過ぎず、その門下も本願寺に帰参後に増えたものだとするためですが、実際の蓮教上人の参入の様子は興正寺が説くように本願寺と興正寺とが大きく連合したというものです。准秀上人は、興正寺は本願寺とは別に発展した佛光寺の系譜をひく寺であり、興正寺と本願寺の関係も連合という関係からはじまったものであって、興正寺は単なる西本願寺の末寺ではないと述べたいのです。
書付に蓮教上人は国々の末寺を召し連れたとありますが、興正寺の末寺は佛光寺以来の末寺をもとに増えていったものです。西本願寺はその佛光寺以来の末寺をも取り上げていたのです。まさに奪い取ったのです。
争いの場合、争う双方のそれぞれにいい分があります。准秀上人はどうしても直孝に自身のいい分を述べたいと思い、この書付を記したのです。
(熊野恒陽記)