【二百三十五】承応の鬩牆 その四十四 越後への出立

2021.07.24

   准秀上人は明暦元年(一六五五)七月二十九日、越後に向かうため江戸を出立します。准秀上人が向かったのは越後の高田藩の領内にある今町の地です。

 

 興正寺殿ハ、七月二十九日江戸御立候テ、越後国頸城郡高田今町ヘ御越ノ由候

 越後高田ハ・・・町屋三四千アリト也、今町ハ少アイ有、浜辺也ト云々、聖人配所ノ国分ト云処ニ近シ(『承応鬩牆記』)

 

   准秀上人は七月二十九日、江戸を立ち、越後国頸城郡の高田藩の領内の今町に向かったとあります。高田藩の本拠地である高田は三、四千軒の町屋がある町で、今町はその高田から少し離れた所にあるともあります。さらに今町は浜辺の地にあり、親鸞聖人が越後に流された時の配所とされる国分の地と近いとも書かれています。この今町は港町で、その港を今町湊といいました。今町湊は直江津ともいわれます。今町よりもむしろこの直江津の地名の方がよく知られています。今町、すなわち直江津は北前船の寄港地で、交通の要衝として栄えた町です。室町時代、日本の十の大きな港を三津七湊と称することがありましたが、今町湊はその七湊の一つに数えられていました。港湾として栄えるとともに今町は漁業も盛んでした。高田と今町は少し離れているとありますが、高田の町と今町は現在はともに上越市に属しているものの、かつては高田は高田市、今町は直江津市と違った市でした。江戸時代の高田と今町の関係は、高田城のある城下町としての高田とその外港としての今町湊という関係でした。准秀上人は今町の地で逼塞することになりますが、今町は辺境の地というわけではなく、逆に繁華な地だったのです。

 

 准秀上人の出立にあたって、准秀上人は縁のある人たちから餞別として金子を贈られています。

 

 井伊掃部頭殿ヨリ金小判百両被進候、下間式部卿迄ニ同金子十両被遣候、御一門中、松平右京殿、松平大膳殿、同出羽殿、同播磨殿抔ヨリ金銀夥敷被進之、俄ニ富貴ニ御成候由候(『承応鬩牆記』)

 

 井伊掃部頭は井伊直孝、下間式部卿は准秀上人に仕えていた下間重玄のことです。井伊直孝からは百両の金子が准秀上人に贈られました。直孝は下間重玄にも十両の金子を贈っています。重玄は越後まで准秀上人と同行し、その後、京都に向かうことになっていました。続けて、一門の人たちも准秀上人に金銀を贈ったとして、松平右京以下の人たちの名が記されています。この松平右京とは讃岐の高松藩の藩主、松平賴重のことです。松平賴重は水戸徳川家の出で、水戸徳川家を介し、准秀上人と縁がありました。松平大膳は長門の長州藩の藩主、毛利綱広のことです。毛利家と興正寺は准秀上人の父、准尊上人以来、深い関係があります。松平は将軍家である徳川家の一門の姓ですが、有力な大名などには松平の姓を称することを許していました。毛利家も松平を称することを許されており、綱広も松平綱広と称していました。松平出羽は出雲の松江藩の藩主、松平直政のことです。直政と准秀上人は毛利家を介し、縁がありました。井伊直孝が准秀上人と交渉する際には、この直政を間に立て、交渉を進めました。松平播磨は常陸の水戸藩の藩主、徳川賴房の五男の松平賴隆です。賴隆は徳川頼房と准尊上人の娘との間に生まれた人物です。良如上人との争いの調停にあたった井伊直孝とともに、こうした縁戚関係にある一門の人たちから多額の金子が贈られたのです。そのため准秀上人は俄に裕福になったとも書かれています。

 

 越後に向けて江戸を出立するにあたってはこうして一門の人たちからの助勢がありましたが、この後の今町での生活においても准秀上人は一門の人からの助成を受けることになります。

 

 越後ニテハ、則興正寺殿御一門ノ松平越後守殿、御座所以下、新ク被立、御馳走候、其上御在国中ノ御賄等、万御用被仰候様ニトテ、侍二人御付候ト云々(『承応鬩牆記』)

 

 越後では興正寺の一門の松平越後守が准秀上人の居宅を建てるとともに、雑務にあたらせるため自身の配下の侍二人を准秀上人に仕えさせることになっているとあります。松平越後守とは高田藩の藩主、松平光長のことです。松平光長は松江藩の松平直政の甥です。さらに直政の姉は毛利家に嫁いでおり、光長はその直政の姉が生んだ娘を毛利家から妻として迎えていました。そのため光長は毛利家を介して准秀上人とも関係がありました。光長は一門として、さまざまな面で准秀上人を援助していくことになります。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

PAGETOP