【二百四十三】承応の鬩牆 その五十二 明暦の大火
2022.03.26
井伊直孝は明暦二年(一六五六)の八月二十六日、西本願寺に准秀上人の逼塞を宥免することを述べた覚書を送っています。良如上人がこれに同意すれば、准秀上人の宥免は決定したことになりますが、良如上人は直孝への返書をなかなか出しませんでした。宥免には反対だったからです。良如上人が返書を出したのは十二月一日のことです。良如上人もやっと宥免に同意したのですが、この返書で良如上人は帰洛後の准秀上人の処遇などをめぐって細かい条件を提示しています。准秀上人が京都に戻ったのなら、京都の興正寺で隠居し、准秀上人が興正寺で仏事を催すといったことはしてはならないとか、准秀上人は西本願寺の御堂に入ってはならず、もし御堂に入りたいのなら、いままでの誤りを書き上げた文書を提出するといったものです。月感についても、月感を宥免したなら、肥後の延寿寺には戻さず、還俗させた上、京都の西本願寺の寺内町に留め置くと書かれています。良如上人は准秀上人を帰洛させたにしても、自分の目の届く興正寺に住まわせ、その後も准秀上人を責め続けようとしたのでした。
直孝もさすがにこれを認めることはありませんでした。良如上人が提示した条件そのものを退けたのです。直孝は良如上人に、宥免のことについては、後日、直に会って意見を聞こうと思っていると伝えました。
一方で、直孝は准秀上人に対しても宥免するということを伝えています。この伝えに、准秀上人は西本願寺と興正寺の争いを裁定するのなら、まず両寺の理非をはっきりさせるべきで、それをはっきりさせないうちは京都に戻ることもないと答えました。
両寺ノ出入ニ付、其理非為被決、被仰分間、其儀如何様ニモ落着不仕候テハ、帰寺有間敷由仰候(『承応鬩牆記』)
気概に溢れた発言というべきですが、准秀上人は逼塞していても自分は屈してなどいないのだという態度を示そうとして、あえてこうした発言をしているようにも思われます。
直孝と良如上人は准秀上人の宥免について、引き続き意見を交換していくことになりましたが、この後、意見の交換は、一旦、中止されることになります。江戸の街の大半を焼いた明暦の大火のためです。
明暦の大火の発生は明暦三年(一六五七)一月十八日のことです。火災は二十日まで続き、この火災によって江戸の街の大半が焼けました。焼死者は数万人に及びました。火元は一箇所ではなく、三箇所あって、一箇所から発生した火災の鎮火にあたれば、別の箇所で火災が発生するといったふうに連続して火災が発生したため、大きな火災となったのでした。冬で空気が乾燥していたことや強風が吹いていたということも被害を大きくした要因です。この火災の前、三箇月近く江戸では雨が降っていませんでした。獄舎の囚人を解き放ったことから、それを脱獄囚と誤解した役人が大きな道に設けられていた防衛上の門を閉じ、そのため関係のない多くの人たちが行き場を失い焼死するということもありました。
この火災によって、江戸では町人たちの家屋だけでなく、旗本の屋敷や大名の屋敷、そして、江戸城までもが焼けました。この時の江戸城には天守閣がありましたが、その天守閣も焼けました。焼けのこったのは江戸城の西の丸だけでした。浅草御堂といわれた西本願寺の江戸の御坊もこの火災で焼けました。
火が鎮まったのち、幕府は焼け出された人びとのため粥の炊き出しを行ないました。一日、千俵の米が粥にされたといいます。炊き出しは二十日間ほど続きました。幕府はさらに家を失った人びとに対し、助成のための金銭を与えました。大名に対しても金(きん)を与えています。幕府にとっては大きな出費でした。この後の江戸城の再建にも百万両近い工費がかかりました。
明暦の大火の被害は甚大です。幕府の役人たちは、火災後の処理や今後の復興のための作業にあたらなければならず、多忙を極めたのでした。幕府の重臣の直孝が良如上人との意見の交換を中止したのは当然です。
当年中ハ、如何様ノ儀モ、江戸御老中御取相不被成候故、興正寺殿ノ儀モ、不及其沙汰、今年モ又暮申候(『承応鬩牆記』)
明暦三年の間は、老中が大火のことにかかりきりとなったため、准秀上人の宥免のことも進展をみることはなかったが、その明暦三年ももう終わろうとしているとあります。直孝が宥免のために、再度、動き出すのは翌明暦四年(一六五八)のことです。
(熊野恒陽記)