【二百四十四】承応の鬩牆 その五十三 准秀上人の宥免が決定する

2022.04.26

   井伊直孝は明暦四年(一六五八)二月晦日、下間重玄に宛てて覚書を送りました。准秀上人の逼塞を宥免し、准秀上人と良如上人とを和解させるための調停案を書いた覚書です。調停案は五箇条の条目からなっていました。条目の一つ目は、准秀上人は隠居して良尊上人が興正寺を継ぎ、良尊上人は良如上人の娘の良々(やや)姫と結婚するというものです。二つ目は、准秀上人は天満興正寺に住み、良尊上人と良々姫との結婚後、西本願寺で良如上人と対面し、正式に和解するというものです。三つ目は、西国に住む興正寺の門下の坊主は通り道だからといって最初に天満興正寺に参詣するのではなく、まず京都の興正寺、西本願寺に参詣してから天満興正寺に参詣するというものです。四つ目は、天満興正寺での仏事は隠居の身にふさわしい規模のものとするものです。五つ目は、西本願寺と興正寺の争いに際し、西本願寺が興正寺の門下から西本願寺の直参門下とした門下を興正寺の門下に戻すというものでした。この覚書を受け取った重玄は、自らこの覚書を准秀上人のもとへと届けました。准秀上人は、以前、直孝が宥免のことを伝えた際には、西本願寺と興正寺のどちらに理があるのかをはっきりさせるまでは京都には戻らないと答えましたが、この調停案には同意しました。重玄は准秀上人から同意したことを記した書状を受け取り、今度はそれを直孝のもとに届けました。

 

   准秀上人が同意したことから、四月二十七日、直孝はこの五箇条の調停案を西本願寺にも送りました。その際、直孝は自分も年を取り、これが最後だと思ってこの調停案を送ったのだと伝えました。暗に同意することを迫っているのですが、これは直孝の本心なのだと思います。この時、直孝は六十九歳でした。

 

   調停案を読んだ良如上人はこの内容に不満を感じました。良如上人は准秀上人は天満興正寺ではなく、自分の目の届く京都興正寺に住むべきだと考えていました。それに文章を書き直すべきだと思う箇所もありました。良如上人は不満の残る箇所についてはその不満を述べるとともに、文章の書き換えが必要な箇所についてはその書き換えを求めた返書を直孝に届けました。

 

   良如上人が文章を変更すべきだとしたのは、西国に住む興正寺の門下の坊主は、天満興正寺ではなく、先に京都の興正寺、西本願寺に参詣するという箇所です。良如上人は興正寺門下の坊主が天満より先に京都に行くのは当然であるが、京都では興正寺、西本願寺の順に参詣するのではなく、まず西本願寺に参詣してから興正寺に参詣するのが昔からの作法だと主張しました。良如上人は、西国に限らず、全ての興正寺門下の坊主は、まず西本願寺に参詣し、その後に京都興正寺、天満興正寺に参詣するというように文章を変更するよう直孝に依頼しました。直孝はこの依頼を受諾しました。文章を変更するなら、文章を変更したということを直孝が准秀上人に知らせ、准秀上人の承認を得ればそれで済むのですが、良如上人はそうではなく、准秀上人に渡した覚書を取り戻し、その覚書の文章そのものを書き換えるように求めていました。原文が変更されていないなら、将来、それを根拠に興正寺が西本願寺より先に興正寺に参詣するのが正しい作法だと主張するかもしれないというのでした。この求めに応じ、准秀上人の手元にあった覚書は取り戻され、書き換えられたのでした。良如上人は先に西本願寺に参詣しないなら、西本願寺は本寺でありながら本寺でなくなってしまうと主張しています。先に本寺の西本願寺に参詣し、次いで末寺の興正寺に参詣すべきだとしているのです。本寺である西本願寺の権威を高め、末寺を本寺に全面的に従わせるようにしていこうとするのが良如上人の希望です。いかなることにおいても、本寺と末寺の区別をはっきりとさせなければならなかったのです。

 

   直孝は調停案で良尊上人と良々姫とを結婚させるとしていますが、良々姫の結婚についてはここで唐突に取り上げられたわけではありません。直孝はこれ以前から西本願寺の家臣に良々姫と良尊上人を結婚させてはどうかということを伝えていました。良々姫は良如上人と八条宮智仁親王の娘の梅宮の間に生まれた娘です。この時、十四歳でした。八条宮智仁親王は桂離宮を造営したことで知られています。

 

   准秀上人の手元の覚書も書き換えられ、良如上人もいつまでも調停案に反対することはできませんでした。七月二十日、良如上人はついに准秀上人の宥免に同意する書状を直孝に送りました。良如上人の同意を得て、准秀上人の宥免が決定したのです。

 

   (熊野恒陽 記)

PAGETOP