【二百四十五】承応の鬩牆 その五十四 越後から江戸へ

2022.05.26

   良如上人は、明暦四年(一六五八)七月二十日、准秀上人の宥免に同意する書状を井伊直孝に送りました。これにより、准秀上人の宥免が正式に決定しました。こうした動きを受け、下間重玄は京都から江戸へと向かいました。重玄は七月の上旬まで江戸にいて、准秀上人と直孝との間に立って准秀上人の宥免についての交渉の仲介にあたっていましたが、交渉の目処がついたことから七月の半ばに京都に戻っていました。

 

   明暦四年は七月二十三日に改元され、万治元年となります。江戸に着いた重玄は、万治元年八月九日、今度は江戸から越後国へと向かいます。准秀上人を迎えにいくためです。越後に向かう際、重玄は直孝から准秀上人が逼塞している越後の今町の領主である高田藩の藩主、松平光長に宛てた書状などを預かっています。その書状は八月九日付となっています。重玄の江戸出立に合わせたもので、ここから重玄が江戸を立ったのが八月九日だということが分ります。

 

   直孝は重玄に書状などを託すとともに、准秀上人に贈る高宮布二十反と一分金百枚をも重玄に預けています。高宮布は井伊家が藩主をつとめる近江国の彦根藩の領内で生産された麻織物のことです。領内の犬上郡高宮村が集散地であったことから高宮布と呼ばれました。麻織物としては高級なもので、将軍家にも献上されていました。一分金は一両の四分の一の価値があります。一分金百枚で二十五両ということになります。

 

   重玄の越後の今町への到着後、准秀上人は迎えにきた重玄とともに越後の地を離れます。准秀上人が越後の地を立ったのは八月二十一日のことです。准秀上人はまずは江戸へと向かいました。

 

   准秀上人の出立にあたって、高田藩の藩主の松平光長は道中の安全のため、藩士一人と医師一人を江戸まで准秀上人に従わせるということを申し出ています。この申し出に准秀上人は医師が従うということは断り、藩士一人だけ同行してもらうということにしました。

 

   越後御立ノ時分ハ、守護松平越後守殿、二三里御送被成候由候(『承応鬩牆記』)

 

   松平越後守とは松平光長のことです。出立の際、光長は、二里、三里もの長い距離を同道し、准秀上人を送ったのだとあります。

 

   准秀上人一行が江戸に到着した日ははっきりとしませんが、准秀上人が江戸から越後の今町に向かった際には、江戸を出発して八日後に今町に到着しています。ここからするなら、准秀上人は八月二十九日ころ江戸に到着したのであろうとみられます。こののち准秀上人は九月二十五日まで江戸に滞在しました。井伊直孝をはじめ、老中、幕府関係者などへの礼や挨拶など江戸でやっておかねばならないことは数多くありました。

 

   九月二十二日、准秀上人が江戸を出立するのに先だって、直孝は准秀上人に萱原綿百把、銀子百枚、重玄に小判十両を贈っています。萱原綿は彦根藩の領内の犬上郡萱原村のあたりで生産された綿のことです。銀子百枚はおおよそ小判七十両ほどに相当します。直孝は准秀上人に従っていた他の家臣にも銀子を贈っています。准秀上人に対する直孝の気遣いということになりますが、直孝の気遣いはこれだけではありませんでした。直孝は大坂町奉行の松平重綱、曽我近祐、堺奉行の石河勝政、京都所司代の牧野親成、女院付の野々山兼綱、京都郡代の五味豊直たちに宛てて書状を認めていました。女院付とは幕府の役職で、朝廷の女院の護衛とともに朝廷の監視をします。京都郡代は皇室領や公家領の管理などをしました。今後、准秀上人は天満に住むことになります。大坂町奉行、堺奉行にはそれを知らせるとともに、何かの時には配慮を加えるように依頼しているのです。京都の興正寺は良尊上人が継ぎます。そして、良尊上人は良如上人の娘の良々姫と結婚することになっています。京都所司代には良尊上人への助成をするように依頼をし、それとともに野々山兼綱と五味豊直の両名には、良尊上人が良如上人と対面する際や良々姫との結婚の際に、良尊上人の後見人を務めるように頼んでいます。野々山兼綱と五味豊直は幕府の旗本です。今後のことを含めて、直政は准秀上人のためにいろいろと気を遣っていたのです。

 

   准秀上人は九月二十五日、江戸を出立します。江戸からは京都に寄らず、直接、大坂天満の興正寺へと向かいました。准秀上人が江戸を出立するのに先だって、その前日の二十四日に下間重玄は江戸を立ち、京都、および天満へと向かいました。先に天満に着いて、准秀上人を迎える準備をするためです。

 

   (熊野恒陽 記)

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