【二百五十】承応の鬩牆 その五十九 准秀上人が京都の不動堂の屋敷に戻る

2022.10.27

   良如上人と和解した良尊上人は前もって決められていた通り、良如上人の娘の良々姫と結婚します。良尊上人が良々姫と結婚したのは万治二年(一六五九)二月九日のことです。それに先だち、二月三日には良尊上人の側から良々姫の側に結納の品が贈られています。

 

   この良尊上人の結婚ののちの二月十八日に准秀上人が天満から京都へと戻ってきます。

 

   十八日、興門様御隠居、天満ヨリ御上洛候テ、不動堂ノ御屋敷ニ御座候(『承応鬩牆記』)

 

 十八日、隠居した准秀上人が天満から上洛し、不動堂の屋敷に滞在したとあります。不動堂の屋敷とは興正寺の南側にあった興正寺の所有していた屋敷のことです。この屋敷は興正寺下屋敷といわれることもあります。ここでは不動堂は地名として使われていますが、その地名のもととなった不動堂とは興正寺の南側の油小路と現今の塩小路が交差する所にある不動明王像を安置する堂のことです。この堂はいまも下京区油小路塩小路下る南不動堂町に不動堂明王院の名でそのままのこっています。この堂があったことから、かつてはこの堂の周辺の地域を不動堂と呼んでいました。不動堂の屋敷とはその不動堂の地にある屋敷という意味です。興正寺の屋敷は堂としての不動堂がある地の西側で、現在の不動堂より、幾分、北側の所にありました。

 

 ここでは興正寺の屋敷の所在地を不動堂としていますが、興正寺の屋敷の所在地はこのほか七条油小路とか、七条醒ヶ井といわれることもありました。いい方は違っていますが、みな同じ地を指しています。屋敷の所在地をより正確にいうなら、七条通りの二筋南の木津屋橋通りと醒ヶ井通りが交差する所の南東側ということになります。木津屋橋通りの南の、醒ヶ井通りに西面する所に興正寺の所有する屋敷がありました。

 

 醒ヶ井通りは京都の街を南北に通る通りです。醒ヶ井通りは堀川通りの一筋東の通りですが、現在は五条通りより南側で堀川通りと重なり、醒ヶ井通りは南は五条通りまでの通りとなっています。醒ヶ井通りは江戸時代から途中で堀川通りと重なっていましたが、江戸時代には現在よりももっと南側で堀川通りと重なりました。かつて西本願寺の北側には本圀寺という寺院がありました。本圀寺は日蓮宗六条門流の本山です。西本願寺と本圀寺は南北に並んで建っていましたが、江戸時代には醒ヶ井通りは北からこの本圀寺と西本願寺との境あたりまでのびており、そこから南で堀川通りと重なっていました。そのため西本願寺や興正寺の前には醒ヶ井通りそのものといえる通りはありませんでした。あるのは堀川通りと重なった醒ヶ井通りです。

 

 西本願寺や興正寺の前では重なっていたものの、この堀川通りと醒ヶ井通りは七条通りより南側で、再び、二つの通りに分かれます。堀川通りは、平安時代以来、運河として用いられてきた堀川に沿った道であり、平安京の堀川小路にはじまるものです。この堀川通りのもととなる堀川は七条通りの南で西側に流れを変え、元来の流れより西側を南に向け流れていきます。これによって堀川通りも西側にずれていくことになります。こうして堀川通りが西側にずれることから、七条通りより南側では、堀川通りと重ならないかたちで、再び、醒ヶ井通りそのものが現われてきます。現在の堀川通りにあたる七条通りからまっすぐ南側にのびる通りがかつての醒ヶ井通りです。興正寺の屋敷は興正寺の門前の道をまっすぐ南に進み、木津屋橋通りを越えた東側の所にあったということになります。

 

 現在は堀川通りが興正寺の前からまっすぐ南にのびていますし、掘川通りの道幅も江戸時代に比べて大幅に拡張されています。これによって、かつての醒ヶ井通りや興正寺の屋敷のあった地も、いまは堀川通りの車道や歩道となっています。木津屋橋通りの一筋南を東西に通る現今の塩小路通りもいまは広い道路となっていますが、この堀川通りと塩小路通りが交差する所の道路がまさに興正寺の屋敷のあった地です。

 

 江戸時代、醒ヶ井通りは西本願寺や興正寺の前で堀川通りと重なっていましたが、これは重なっていたというだけで、醒ヶ井通りが途切れたということではありません。そのため江戸時代には興正寺の前の堀川通りを醒ヶ井通りと呼ぶこともありました。興正寺の所在地を堀川七条ではなく、醒ヶ井七条ということもありますが、これもそうしたことにもとづくものです。

 

 准秀上人が京都に戻ったのは良如上人と和解するためです。慎みの態度を示すため、准秀上人は興正寺ではなく不動堂の屋敷に入ったのでした。

 

 (熊野恒陽 記)

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