【二百五十六】興正寺の復興 その三 高松御坊の再建を思い立つ

2023.04.27

   良尊上人は興正寺の住持になると、まず興正寺の御堂、対面所などの修理に取り組み、各地の門下にその修復工事への協力を求めました。良尊上人は修復工事と通し、門下を活気づけようとしたのです。このほか、良尊上人は門下の教化のため、各地の門下に宛て教化ということに重点を置いたご消息を記すということもしていました。これもまた門下を活気づけるためです。良尊上人は門下を活気づけ、興正寺全体を復興しようとしていたのです。  

 

 良尊上人はこうした興正寺の復興のための一環として、興正寺の御坊の再建や修復にも取り組んでいます。良尊上人は八月十日付の、讃州、阿州の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てたご消息で高松御坊の、九月二十一日付の、紀伊国、和泉国、堺の一家衆中、飛檐衆中、坊主衆中、門徒衆中に宛てたご消息、ならびに十月四日付の、摂津国、河内国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てたご消息で天満御坊の、十月二十一日付の、摂津国の惣坊主衆中、惣門徒衆中に宛てたご消息で塚口御坊の、再建、修復を思い立ったとして、それへの協力を依頼しています。このうち天満御坊と塚口御坊についてはどのような工事が行なわれたのかははっきりしませんが、高松御坊については再建したことが分かっています。

 

 八月十日付の讃岐国と阿波国の門下に宛てたご消息は高松御坊の再建を思い立ったとするものですが、このご消息はほぼ同一の内容のものが二通のこされています。一通は讃岐、一通は阿波の門下に宛てたものということになります。その二通のうちの一通には書き込みがあって、このご消息が万治二年(一六五九)に書かれたものであることが分かります。万治二年なら、良尊上人が住持になった万治元年(一六五八)の翌年であり、良尊上人が京都の興正寺の修復に取り組んでいた時と同時期のものとなります。良尊上人は京都の興正寺の修復工事とともに御坊の再建、修復にも取り組んでいたのであり、まさに興正寺全体を復興させようとしていたのです。

 

 良尊上人は八月十日付のご消息の中、高松御坊は大破に及んでいると述べています。

 

   高松御堂の義、年月久敷ふりて、大破にをよひ候につき、再興の義、思立候、各被抽懇志之誠、随分令馳走、建立の義、相調候様に偏に頼入候、是則仏法興隆にてあるへく候、且ハ祖師聖人への報恩謝徳に相備り、別而ハ予か年来の本望に足ぬへく候、就其、同行中、いよ〱法義相嗜、今度の往生極楽の本意、可被遂事肝要に候(「興正寺文書」)

 

   高松御堂、すなわち高松御坊の御堂は長い歳月を経て大破に及んでいるので、再建のことを思い立ったとあります。続けて、門下の人たちにはそれぞれの分に応じた協力をしてくれるように願いたいとあって、協力してくれるなら、それは仏法の興隆に資することになるし、親鸞聖人への報恩ということにもなり、それとは別に再建したいというかねてからの自分の願いを満足させることにもなるとあります。そして、門徒の心得として、法義を嗜み、極楽往生を遂げることが肝要だということが述べられています。

 

 ここにいう高松御堂、すなわち高松御坊とはまさしく現在の高松市御坊町にある興正寺の高松別院のことです。高松御坊となる坊は各地を移転したのち、現在の御坊町の地に移されます。高松御坊が現在の地に移されたのは慶長十九年(一六一四)のことです。ご消息が書かれる四十五年前ということになります。ご消息には御堂について、年月久敷ふりて、とありますが、長い歳月を経ているということからすると、この御堂とは現在の御坊町の地に御坊が移された時に建てられた御堂のことだとみられます。建立以来、四十年以上を経て大破に及んでいるので再建を思い立ったといっているのです。それに加え、准秀上人の越後国での逼塞中は高松御坊も閉門とされたため、人の出入りも制限され、建物が破損しても公然と修復するということはできませんでした。そのために御堂の老朽化もより進んでいったものと思います。

 

   良尊上人がこのご消息を書いたのは准秀上人の存命中のことです。准秀上人は御消息が書かれてから一年後の万治三年(一六六〇)の十月に亡くなります。高松御坊は讃岐の高松藩の領内にありますが、准秀上人は高松藩の藩主の松平頼重と親密な関係にありました。准秀上人と良如上人が争った際、准秀上人の後ろ盾になったのが頼重でした。准秀上人と頼重との親密な関係は、准秀上人の隠居後は良尊上人にそのまま引き継がれ、良尊上人は頼重と親しい関係を保っていきます。この後、高松御坊は再建されることになりますが、頼重はその再建にも大きく関わっていくことになります。 

 

   (熊野恒陽 記)

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