【二百六十】高松御坊の再建 その二 松平頼重の援助
2023.08.28
高松御坊の御堂は良尊上人によって再建されます。その御堂の再建がいつのことなのかははっきりしておらず、興正寺の第二十七世の本寂上人も御堂の完成は寛文年間(一六六一―七三)のことのようだとしか記していませんでした。再建から二百年ほどしか経っていない本寂上人の活動した時代であってでさえ、完成がいつであったのかは正確には分からなくなっていたのです。本寂上人は寛文年間の文書や寄付帳があるということから、完成を寛文年間のこととしたのでした。
京都では高松御坊の御堂がいつ再建されたのかは分からなくなっていましたが、御坊のある高松では御坊の再建に関わるいい伝えがのこされていました。
寛文二年、龍雲院様、今の土地へ御建立被遊、門前町等御寄附被在、一宗総録所に被仰付
これは木村黙老の著わした『聞まゝの記』にみえる一節です。木村黙老は安永三年(一七七四)に生まれ、安政三年(一八五六)に没した人で、讃岐国の高松藩の家老をつとめた人物です。黙老は和漢の学問に通じ、何冊もの著作をのこしています。黙老の『聞まゝの記』には讃岐の御坊川の名の起こりを説いた箇所があります。そこにこの一節が記されています。御坊川は現在の高松市を流れる川ですが、御坊川の名は川の横に興正寺の御坊があったことから、そう呼ばれるようになったものです。そのため『聞まゝの記』には御坊川の名の起こりとともに、高松御坊のことについても触れられています。ここにいう龍雲院とは高松藩の藩主の松平頼重のことです。高松御坊は松平頼重が寛文二年(一六六二)、御坊川の横にあった御坊を、現在、御坊のある高松市御坊町の地へと移して建立したもので、頼重は門前町などを寄付するとともに、御坊を真宗の録所としたと書かれています。実際に御坊が現在の御坊町の地に移されたのは慶長十九年(一六一四)のことです。寛文二年に現在の地に移されたというのは誤りです。しかし、ここに記された寛文二年という年は、御坊が再建された年として伝えられていたものとみられ、黙老がそれを御坊が移された年と取り違えて、高松御坊は寛文二年に現在の地に移されたと書いているのではないかと思われます。高松御坊の再建の年は寛文二年としてよいように思います。そして、ここで重要なことは、黙老が御坊は松平頼重が建立したと述べていることです。良尊上人は御坊の御堂の再建への協力を求めるご消息を書いており、御坊の再建にあたったのは良尊上人です。それにもかかわらず、頼重が御坊を建立したと述べているということは、御坊の再建には御坊を再建したのは頼重だと見誤るほど、頼重による援助があったということなのだと思います。頼重は御坊の再建に協力し、多大な援助をしていたのです。
高松御坊の再建については、このほかにもいい伝えがのこされています。
龍雲院様御取立、御坊御堂御建立之節、興正寺御門跡末寺頭
三木郡氷上村 常光寺
阿州美馬郡香里村 安楽寺
右両寺御用召ニ付、罷出候所、御坊御堂御普請万々勤方之義、蒙 仰、夫より両寺共、月替りニ出勤仕、万事相計、御普請成就以後、御堂之諸事執行申候(「常光寺文書」)
これは明治二年(一八六九)に書かれた讃岐国三木郡氷上村の常光寺の由緒書の一部です。松平頼重の取り立てによって、高松御坊の御堂が建立される際、高松御坊配下の興正寺の末寺の頭である氷上村の常光寺と阿波国美馬郡郡里村の安楽寺が、御堂の再建工事の諸事を取り仕切るように命じられので、両寺がそれにあたり、御堂が建立された以後も御堂に関わる諸事は月替わりでこの両寺が取り仕切ったのだと書かれています。常光寺は興正寺の末寺ですが、その常光寺でさえ、高松御坊の御堂は頼重の取り立てによって建立されたのだといっています。やはり御坊の再建にあたっての頼重による援助は甚大なものだったのです。ここでは、常光寺は安楽寺とともに御堂の再建工事の諸事を取り仕切るように命じられたとされていますが、それを命じたのは頼重だとされています。頼重は再建工事の全体に深く関わっていたのです。高松御坊では、最初は常光寺と安楽寺、その後は常楽寺と安楽寺の末寺である安養寺が月替わりで御堂の諸事を取り仕切っていましたが、この由緒書では、それは御堂の再建を契機にそうなったのだと記されています。この時の再建が高松御坊に大きな変化をもたらしたものであったこということをうかがわせる記述です。
(熊野恒陽 記)