【二百七十】香福寺 熊本にあった興正寺の兼帯所

2024.06.25

 寂永上人は寂岷上人の跡を継ぎ、興正寺の住持になりました。寂永上人は寂岷上人の従兄です。良尊上人の子が寂岷上人であり、良尊上人の弟の圓尊師の子が寂永上人です。

 

 寂永上人の父の圓尊師は慶安元年(一六四八)、十三歳の時に月感の養子となり、肥後国熊本の延寿寺に入寺しました。のち圓尊師は延寿寺の住持になりますが、月感が延寿寺を東本願寺の門下の寺にしようとしたことから、月感と対立し、妻とともに延寿寺を出ます。圓尊師の妻は月感の娘です。二人はその後、京都の興正寺に居住します。圓尊師と妻との間には、二人が延寿寺を出る前に清寿丸という子が生まれていました。圓尊師夫妻が寺を出る時、清寿丸は二歳でした。圓尊師夫妻は清寿丸を延寿寺の跡取りとするため、清寿丸を延寿寺にのこして寺を出ました。清寿丸はのち東本願寺で得度し、法名、常隆と名乗りました。常隆師は東本願寺の末寺となった延寿寺の住持となりました。延寿寺が東本願寺の末寺になるのは寛文六年(一六六四)のことです。

 

 常隆師が熊本で生まれ育ったのに対し、寂永上人は圓尊師夫妻が京都に居住してから生まれた子です。圓尊師は延寿寺を出て、月感との縁を絶ちましたが、常隆師と寂永上人が兄弟であることは間違いのない事実です。当時、西本願寺と東本願寺は激しく対立していましたが、西本願寺の側に属す興正寺の住持の兄が東本願寺の末寺の住持であったのでした。

 

 東本願寺の門下となった延寿寺はその後、肥後国の東本願寺門下寺院の触頭になります。触頭は幕府や藩のいわゆるお触れを地域の末寺に伝達することが本来の任務ですが、各本山の力を背後に次第に地域の末寺への支配力を強めていきます。触頭になったのはそれぞれの地域の有力な寺です。延寿寺は江戸時代の中期には五十五箇寺の末寺を有していました。延寿寺は肥後国の真宗寺院のなかでは有数の大きな寺でした。

 

 東本願寺門下の寺として延寿寺が有していた五十五箇寺の末寺の多くは、延寿寺の転派とともに東本願寺門下に移った寺ですが、転派にあたっての延寿寺の末寺の動きは複雑です。上寺の延寿寺の転派にともない一緒に改派する末寺がある一方、延寿寺に従わず、そのまま西本願寺の門下にとどまる寺もありましたし、一緒に転派したものの、その後、再度、転派し、西本願寺の門下に戻ってきた寺もありました。さらには、延寿寺の末寺ではないのに、延寿寺とともに転派し、転派後に延寿寺の末寺となるという寺もありました。

 

 延寿寺は興正寺の末寺であり、延寿寺とともに末寺が転派すると、興正寺はその分、末寺を失うことになります。延寿寺に従うか、従わないかは、大きくは延寿寺と末寺とのそれまでの関係にもとづいて決められましたが、興正寺の末寺にとどまりたいという思いから、延寿寺に従わなかった末寺僧侶や門徒もいました。

 

 益城郡高福寺誓甫者、雖為延寿寺門下、不敢従月感而、反結摂二千戸檀家、令不離散、営興正寺別所、興門主良尊、賜書賞之(『大谷本願寺通紀』)

 

 高福寺誓甫は、延寿寺の門下であったのに、月感には従わず、反対に二千戸の檀家をとりまとめ、興正寺の兼帯所を営んだことから、良尊上人がそれを賞したとあります。興正寺の兼帯所を営んだとありますが、この兼帯所は寺号を香福寺といいました。香福寺は肥後国詫間郡本山村にあり、いまも熊本県熊本市本山町の地にそのままあります。現在は宗派に属さない単立の寺院です。ここでは香福寺を興正寺別所といっていますが、江戸時代には、香福寺を興正寺の通寺、掛所、あるいは、興正寺の兼帯所、御坊といっていました。興正寺の住持が兼帯する寺ということです。この時代、新たに寺を建立するということは、表向きには禁じられていたため、香福寺はこの地にあった天台宗の寺を再興するというかたちで建立されました。香福寺が熊本藩の藩主から正式に寺として認められるのは延宝七年(一六八〇)のことです。延寿寺が転派したことで建立されたのが、興正寺の兼帯所、香福寺でした。

 

 圓尊師は月感とは対立したものの、圓尊師、寂永上人と常隆師との関係は良好なものであったようです。本寂上人は、興正寺の住持の家の家系図を何点か作成していますが、そのなかには住持の一族として延寿寺の住持の家を取り上げ、延寿寺の住持の家の家系を詳しく記したものもあります。興正寺には延寿寺を興正寺住持の一族の寺とする見方があったことから、本寂上人もそれに従ったものと思います。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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