【二百七十八】学林 その四 東本願寺の学寮と東坊
2025.02.24
学林の建立後、学林での最初の講義を行なったのは、西本願寺の御堂衆であった光隆寺知空です。この知空は慶安三年(一六五〇)、十七歳の時に学林の前身である学寮に入っています。この時には、学寮は西本願寺の境内地の西側の西侍町にありました。学寮はこののちの承応元年(一六五二)に当時の興正寺の境内地の南側にあたる川端の地に移されます。
学寮に入った知空は能化の西吟に師事します。西吟の門下の内において、知空の能力は群を抜いており、十九歳の時には西吟の『安楽集』の講義の内容をまとめた『安楽集鑰聞』七巻を執筆しています。『安楽集鑰聞』七巻はのちに刊行されています。知空はまさに西吟の後継者でした。
月感との争い以後も、西本願寺では西吟は非常に重んじられていました。学林は学問を好んだ寂如上人の代に建立されますが、寂如上人も十二歳の時にまずは西吟から『選択集』についての教えを受け、それ以後真宗の教えについての学びを深めていきました。寂如上人の最初の師も西吟であったのです。
西本願寺での学林の建立に先立って、東本願寺では寛文五年(一六六五)、学寮が開設されています。西本願寺の学林が建立される三十年前のことです。東本願寺では、この学寮との名称は筑紫国太宰府の観世音寺にあった学寮の名跡を復活させたものだといっていました。観世音寺は三戒壇といわれる三箇所の戒壇のうちの一つが設けられた寺として知られています。古く、日本には大和国の東大寺、下野国の薬師寺、そして、筑紫国の観世音寺にしか戒壇はなく、この三箇寺のいずれかで受戒しなければ僧侶になることはできませんでした。この三箇所の戒壇を三戒壇と称しています。学寮はその観世音寺にあった学寮の名跡を継ぐものだというのです。東本願寺は、観世音寺の学寮の名跡を継ぐのであるから、学寮の開設は新儀の行ないではないし、学寮との名称は一緒でも、西本願寺の学寮とは違うものだということを主張したかったのです。
東本願寺の学寮は、学寮の専用の建物があったわけではなく、当初は東本願寺の近隣の末寺の堂舎で講義が行なわれていました。講義を行なったのもその末寺の住持です。その講義が行なわれた寺こそ、東坊です。この東坊は、興正寺の末寺である東坊の住持であった了海が、東坊を出て、東本願寺の門下となった上で、新たに東本願寺の末寺として開いた寺です。了海は西吟と争った月感に師事していました。了海は長く学問を積んだ学僧です。西吟と月感との争いは、その後、良如上人と准秀上人の争いへとなっていきますが、了海はそれらの争いの際の西本願寺の対応に嫌気が差し、西本願寺の門下を離れたのでした。了海が転派したのは明暦元年(一六五五)の十月十六日のことです。
当寺内東坊了海、十月十六日、東信浄寺殿ヘ別心仕リ、東ニテ定衆ニナサレ候由候(『承応鬩牆記』)
十月十六日、東坊了海は西本願寺に背いて東本願寺に心を寄せ、東本願寺の門下となり、東本願寺では定衆となったとあります。東信浄寺とは東本願寺のことです。信浄とは東本願寺を開いた教如上人の院号である信浄院のことです。定衆は、本来は本願寺住持の連枝の寺や一族の寺などを除いた、いわゆる一般末寺の住持の代表に相当する役職です。了海は格別に遇せられていたのでした。明暦元年は、七月の中旬に西本願寺の学寮が取り壊されるとともに、七月の下旬には准秀上人が江戸から越後国に向かい、以後、越後国で逼塞することになる年です。了海は、終始、月感の側に与しており、西本願寺も了海を遠ざけていました。了海は西本願寺への不満をつのらせていたのです。
東坊の堂舎は転派の翌年の明暦二年(一六五六)に建てられます。東坊の堂舎があったのは東本願寺の門前の間(あい)之町通りと七条通りの交差点の北側の地です。この東坊はのち東光寺と寺の名を改めます。東光寺は現在も東本願寺の門前にありますが、現在の東光寺は当初の地よりも西側の離れた地に建っています。
この了海の転派から十年後、東坊では学寮の講義が行なわれることになります。月感の弟子の了海は東本願寺の学寮の開設に深く関わっていたのです。そして、学寮が開かれてから一年後の寛文六年(一六六六)には、月感自身が東本願寺の門下に転派します。西吟とその弟子の知空は西本願寺の学寮、学林で講義を行ないましたが、西吟と争った月感とその弟子の了海は東本願寺の門下に転じ、了海は東本願寺の学寮での最初の講義を担当するに至ったのでした。
(熊野恒陽 記)