【二百七十九】仏護寺十二坊 その一 仏護寺と十二坊が城下に集められる

NEW2025.03.25

 広島県広島市中区のかつての広島城の城域の西には寺町と称される地区があります。寺院が多くあることから寺町の名がつきました。この寺町の中心となっている寺は、浄土真宗本願寺派の広島別院です。広島別院は明治時代に西本願寺の別院となりますが、それ以前は住職のいる普通の寺でした。寺号は仏護寺といいました。仏護寺は興正寺の末寺頭の一つである東坊の末寺でした。普通の寺といっても、仏護寺は極めて多くの末寺をかかえた大きな寺で、安芸国における西本願寺門下の触頭でした。触頭は藩の命令や知らせを藩内の末寺に伝達することが本来の役割ですが、それとともに本山である西本願寺の命令や知らせを末寺に伝達するということも行ないます。仏護寺は広島藩の触頭としては、広島城下の五つの町組のなかにある真宗寺院のうち二十二箇寺の西本願寺の末寺に藩の命令や知らせを伝達するだけでしたが、西本願寺の命令や知らせを伝達する触頭としては、安芸国全体の西本願寺の末寺に命令や知らせを伝達していました。

 

 寺法安芸国八郡の触口役寺・・・国法町組真宗東西四十一ヶ寺のうち・・・二十二箇寺の触頭

 

 広島城下の地誌である『知新集』の一節です。仏護寺は西本願寺の寺法にかかわることについては安芸国八郡、つまりは安芸一国の触口であり、広島藩の国法にかかわることについては、町組のなかにある二十二箇寺の触頭だとあります。触口は、役割は触頭と同じですが、触頭よりも規模が小さく、命令や知らせの伝達先である触下の寺院数が触頭ほど多くはない寺のことです。ここには仏護寺は触口とされていますが、江戸時代の西本願寺の記録には仏護寺は西本願寺の命令や知らせを伝達する安芸の触頭だと記されています。

 

 広島市の寺町にはこのかつての仏護寺である広島別院を中心に、かつての仏護寺の有力な末寺であった仏護寺十二坊と総称される寺々、それに十二坊ではないかつての仏護寺の末寺の寺々が並んで建っています。これら仏護寺を中心とする寺院群は広島城の築城と城下の整備の進行にともなって意図的に同じ場所に集められたものであり、元来は仏護寺や仏護寺十二坊と呼ばれる寺々は、それぞれ別の場所にありました。

 

 広島城を築いたのは山陽、山陰地方の八箇国にも及ぶ地を領地とした毛利輝元です。毛利氏は安芸国高田郡吉田を本拠地に勢力を拡大していきますが、その過程で毛利氏は拡大した領地内の仏護寺を庇護していくことになります。最初に仏護寺を庇護したのは輝元の祖父にあたる毛利元就です。戦国時代、元就は仏護寺に寺領を与えています。もともと仏護寺は安芸国佐東郡の銀山の山麓の龍原という地にあったといわれていますが、その地の仏護寺の本堂も、戦火による焼失ののち、元就が再興したものだと伝えられます。仏護寺が有力な寺になったのは、この毛利氏による庇護ということが大きな要因となっています。

 

 毛利輝元は天正十七年(一五八九)に広島城の築城を始めます。そして、築城中の文禄二年(一五九三)ころ、輝元は仏護寺と十二坊をそれぞれの所在地から城の近くに移転させます。この時の移転では、仏護寺、十二坊はいまの寺町に移転したのではなく、寺町よりさらに西にある小河内という地の付近に移転しました。当然、移転を指示したのは輝元ということになります。

 

 この移転ののちの慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦が起こります。江戸の徳川家康の東軍と、大坂の豊臣方の諸将の西軍が戦いますが、東軍の総大将の家康に対し、西軍の総大将となったのは毛利輝元です。このため輝元は、合戦後、勝った家康により領地を召し上げられ、広島から長門国の萩に移ることになります。

 

 輝元の次に広島城に入り、江戸幕府下の広島城の城主になったのは福島正則です。広島城の築城はまだ続いており、正則は築城と城下町の整備に取り組みます。その一環として、慶長十四年(一六〇九)、正則は仏護寺と十二坊を小河内付近の地からいまの寺町の地へと移転させます。これら二度にわたる移転に際しては、十二坊のそれぞれは同一の行動をとったわけではく、小河内付近の地には移転せず、直接、もとの地から寺町に移った寺や、実際にはもとの地にそのままあり、寺町には寺の土地だけがあるという寺もありました。

 

 こののち正則は、将軍、徳川秀忠の怒りをかい、転封され、浅野長晟が広島城に入ります。広島藩の初代藩主はこの長晟ということにされています。その長晟の曾孫の綱長が藩主だった元禄十四年(一七〇一)、仏護寺と十二坊の間に争いが起こります。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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