【二百八十一】仏護寺十二坊 その三 十二坊側の反発

2025.05.25

 広島藩は、元禄十四年(一七〇一)、宗門改めの方法を部分的に変更しましたが、これに対し、仏護寺十二坊は激しく反発します。広島城の城下では、寺院が召し使っている者たちの宗門改めは、その者たちを召し使っている寺の住持がそれぞれの者のことを寺内宗旨判形帖という帳面にまとめ、住持が帳面に判形を据えた上で、その帳面を藩に提出していました。塔頭寺院の場合は、塔頭の住持が帳面をまとめて判形を据えるとともに、本坊の住持も判形を据えていましたが、それが変更となり、塔頭の寺が召し使っている者の宗門改めは本坊の住持が帳面をまとめた上、本坊の住持だけが判形を据えて提出するようになったのです。塔頭の住持は自分の寺で召し使っている者の宗門改めには関与することができないということになったのでした。

 

 塔頭のものとも一寺並の判形せる事、理にあたらす、今より後ハ塔頭召仕のもの宗門改の証文、塔頭のものより本坊へとりおき、本坊請負て帖面に判形し、塔頭の連判除くへしと申付しに、国泰寺塔頭のものともハ其よししたかひ、仏護寺塔頭十二坊ハかしこまらす、同年十月四日、十二坊のうち、円竜寺、善正寺、超専寺、三人寺社町御奉行宅へ願書をもち出、先規よりすゑ来れる判形なれハ、これまてにたかハす申つけたまへかしと訴へし(『知新集』)

 

 塔頭の寺が一つの独立した寺として寺内宗旨判形帖に判形を据えるということは理に反することなので、今後は塔頭の住持は判形を据えず、本坊の住持が判形を据えるように命じたところ、国泰寺の塔頭の住持はそれに従ったのに、十二坊はそれに従わず、元禄十四年の十月四日、円竜寺、善正寺、超専寺の住持、三人が寺社奉行の屋敷に願書を持参し、以前から判形を据えてきたのだから、これまでと同様に判形を据えるようにしてもらいたと訴えてきたとあります。ここに出てくる国泰寺は曹洞宗の寺で、広島藩の藩主家である浅野家の菩提寺であった寺です。国泰寺には浅野家の墓所が設けられており、浅野家は寺領を与えるなど、国泰寺を篤く庇護していました。国泰寺の塔頭の住持たちは藩の命令に従ったとありますが、浅野家と国泰寺の関係からいって、国泰寺が藩の命令に逆らうということは困難なことです。国泰寺の塔頭の住持たちが藩の命令に従うのは当然のことですが、国泰寺の塔頭の住持たちが藩の命令に従ったことには、より大きな理由がありました。それは国泰寺の塔頭は本当に国泰寺の塔頭であったということです。これに対して、仏護寺十二坊は仏護寺の塔頭ではないのです。十二坊は藩の命令に反発しますが、それは命令を下すに際して、藩が十二坊を仏護寺の塔頭として扱っていることに反発しているのです。

 

 この元禄十四年の宗門改めの方法の変更以前から、仏護寺十二坊の寺内宗旨判形帖は十二坊の各寺の住持が判形を据えるとともに仏護寺の住持もその寺内宗旨判形帖に判形を据えていました。これは国泰寺の塔頭も同じで、塔頭の住持とともに本坊の国泰寺の住持が判形を据えていました。こうした形式となっていたことだけからするなら、十二坊は塔頭だということにもなりそうです。しかし、十二坊の側は塔頭であるからこうした形式となっているのだとは思っていませんでした。本末関係では、仏護寺は本寺で十二坊はその末寺です。十二坊の側は、本末関係にある仏護寺と十二坊が本寺を中心に集まって建っているという境内の状況から、そうした形式となっているのだと思っていたのです。十二坊を仏護寺の塔頭として捉えるというのは、元禄十四年の宗門改めの方法の変更の時に初めて出てきた捉え方で、それ以前にはなかった捉え方です。

 

 宝永二年十二坊始終覚書にはしめて境内塔頭の名あらハれ(『知新集』)

 

 広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭として扱ったことにより、当の仏護寺も見方を変え、十二坊を塔頭として扱うことになります。そのため仏護寺と十二坊は対立することになりますが、宝永二年(一七〇五)にその時の様子をまとめた記録が著されます。それが『宝永二年九月 十二坊始終覚書』という記録です。そこに初めて塔頭という語が現われると書かれています。本来、十二坊を塔頭だとする捉え方はなかったのです。円竜寺の住持たち三人は、十二坊を塔頭だとする藩の捉え方に驚き、その捉え方を改めてもらうため、寺社奉行のもとを訪れたのでした。しかし、藩は十二坊側の要求を受け入れてはくれませんでした。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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