【二百八十二】仏護寺十二坊 その四 藩に逆らったとして罰せられる
NEW2025.06.25
仏護寺十二坊のうちの円竜寺、善正寺、超専寺の三箇寺の住持は、元禄十四年(一七〇一)十月四日、広島藩の寺社奉行の屋敷を訪れ、寺内宗旨判形帖には、これまで通り、われわれ十二坊の住持らも判形を据えるようにしてもらいたいとの申し入れをしました。これに対し、寺社奉行は、寺内宗旨判形帖は提出する期限の日が決まっており、明日、五日がその期限の日なので、ひとまずここは十二坊の住持たちは判形を据えず、仏護寺の住持だけが判形を据えた寺内宗旨判形帖を提出するようにといってきました。奉行は宗門改めは公の決まりごとであるのであるから、藩に逆らわず、藩の命令に従うようにともいいました。これには、三箇寺の住持たちは、一旦、十二坊の住持の判形のない寺内宗旨判形帖が提出されれば、今度はそれが先例となり、十二坊の住持は判形を据えないということが普通のことになってしまうと反論し、頑なに自分たちの意見を主張しつづけました。
困ったのは奉行です。奉行はどうすればよいのかを藩の年寄衆に尋ねることにしました。年寄衆は、とりあえず寺内宗旨判形帖のうちの十二坊の分は提出の期限を延期させることにすると奉行に伝えました。藩が十二坊の分の寺内宗旨判形帖の提出期限の延期を認めたのです。藩側は日を改めて十二坊に命令に従うように説得することにしました。そして、その際、藩は城下にある西本願寺門下の明教寺の住持に十二坊を説得させることにしました。この明教寺の住持は仏護寺の住持の妹を妻としていました。その上、明教寺の住持の娘は十二坊のうちの光円寺の住持の妻となっていました。明教寺は仏護寺にも、十二坊にも親しく意見がいえる関係にあったのです。
藩の要望をうけ、明教寺は十二坊を説得します。しかし、十二坊の側は説得をまったく受け入れませんでした。そこで明教寺は十二坊の檀家の有力者たちを集め、十二坊に藩に従うように説得するように依頼することにしました。初め、有力者たちは十二坊の住持たちが藩に逆らっていることを知り、驚きました。有力者たちは、早速、十二坊の住持たちを説得しましたが、住持たちとのやり取りのなかで、住持たちのいっていることの方が正しいと、住持たちに同調する有力者も出てきました。明教寺の住持による説得は不調に終わったのです。
逆に勢いを得たのは十二坊の側でした。十二坊の住持たちは、再度、寺社奉行の屋敷を訪れ、寺内宗旨判形帖には十二坊の住持も判形を据えるようにしてもらいたいと訴えました。しかし、この十二坊の住持たちの行動は裏目に出ました。この行動により、奉行は寺内宗旨判形帖のことで最初に訴えてきた円竜寺、善正寺、超専寺の三箇寺の住持を町の大年寄役の者の家屋に預け置くことにし、それ以外の十二坊の寺は閉門ということにしました。奉行は住持たちの執拗さに反発を覚えたのです。住持たちは、藩の命令に従わず、藩に逆らう者として罰せられました。十二坊の分の寺内宗旨判形帖は提出の期限が延長されていましたが、藩は仏護寺に命じ、それらの寺内宗旨判形帖に仏護寺の住持の判形だけを据えさせ、提出させました。寺内宗旨判形帖は、寺で召し使っている者が檀家となっている旦那寺の住持が書いた証文をもとに作成されますが、十二坊の住持たちのもとに届けられていたそれらの証文を、仏護寺の住持がとり集めた上で、仏護寺の住持が寺内宗旨判形帖を作成し、そこに判形を据えて藩に提出したのです。円竜寺の住持たち三人は、それぞれ別の大年寄役の者の家屋に預け置かれましたが、三人とも座敷に入れられ、座敷から出られないように、昼夜、番人に監視されていました。そのほかの十二坊の寺も閉門となり、表だった活動はできなくなりました。
十二坊が閉門となったことは、その後、仏護寺の本寺である興正寺の知るところになり、興正寺は使僧を広島に送りました。
同年の冬、十二坊閉門申つけけるさま、聞つくろひのため興正寺御門跡御内正恩寺といふ僧、罷下り(『知新集』)
派遣されたのは興正寺の御堂衆の正恩寺です。正恩寺の住持は、代々、興正寺の御堂衆をつとめましたが、この寺は興正寺の末寺ではなく、西本願寺の直参の末寺でした。西本願寺は、正恩寺は興正寺の住持の付け人として遣わしたものだといっていました。末寺ではありませんでしたが、興正寺の御堂衆であったことから、使僧として派遣されているのです。
(熊野恒陽 記)