【二百八十八】仏護寺十二坊 その十 藩を批判する書付

NEW2025.12.29

 仏護寺の住持が、十二坊と十二坊の檀家の者たちが自分を悪くいうため、寺を維持するのが難しくなったので、自分は寺を出て、寺を藩に献上するという断書を藩に提出したことから、藩は仏護寺の住持に寺にとどまるようにと述べるとともに、十二坊の住持たちにも意見を伝えました。これに対し、十二坊の住持たちは、今後、仏護寺の住持を疎かにはしないと答えましたが、藩がくり返し述べている、十二坊は仏護寺の境内にある塔頭であるという主張については、到底、了承することはできないと返答しました。元禄十六年(一七〇三)十二月十四日のことです。

 

 十二坊の住持たちに藩の意見を伝えたのは寺社奉行です。十二坊は仏護寺の塔頭であり、塔頭として本坊である仏護寺に従うようにと藩は求めているのです。塔頭でないとする十二坊の主張は藩の捉え方とは異なっており、塔頭として仏護寺に従うようにという藩の意見に反するものということになります。奉行は住持たちに説得を重ねましたが、十二坊の側は説得には応じませんでした。奉行は翌十五日も、住持たちの説得にあたります。それでも十二坊の住持たちは説得に応じることはありませんでした。この奉行からの説得が行なわれたあと、十二坊の住持たちは自分たちの意見を書付にまとめ、それを仏護寺へと届けます。

 

 去年寺帖判形先規之通ニ被仰付候、自元銘々之寺地ニ而御座候処、仏護寺境内御座候而ハ、寺内僧ニ相成申候、左様ニ御座候而ハ、対宗門無拠儀とも御座候、因茲興門主ニも再三御断被仰入候処、右之段被為聞召、先規之通ニ被仰付候、然上者、御厚恩難有永々迄難忘奉存罷在候処、仏護寺境内と御座候而ハ御厚恩之程をも奉忘ニ罷成、迷惑ニ奉存候(『知新集』)

 

 寺内宗旨判形帖には塔頭の住持は判形を据えることはできないが、去年、十二坊の住持は以前のように判形を据えるようにと藩から仰せつかった。そうであるなら、われわれ十二坊は塔頭ではないということになるのであろう。十二坊の所在する地は、もともと十二坊のそれぞれの寺地なのである。それを仏護寺の境内であるというのであれば、われわれは仏護寺の寺内僧、つまりは塔頭ということになってしまう。もし、そういうことになれば、西本願寺はわれわれ十二坊を寺内僧とは思っていないのであるから、われわれではなく、本山にとって、問題となるようなこともいろいろと生じることになる。そうであるから、藩は興正寺門跡と、再三、交渉し、右に述べたように十二坊は塔頭ではないということを理解して、以前のように判形を据えることを許してくれたのである。判形を据えるということは塔頭ではないということである。藩の厚いご恩は長く忘れることはできないことであるが、もし、藩が十二坊を仏護寺の塔頭だというのであれば、去年の藩のご恩も忘れてしまうことになるし、逆に藩の仕打ちを迷惑に思うことになるであろう。

 

 書付にはこういったことが記されていました。十二坊の住持たちは書付を仏護寺に届け、仏護寺にこの書付を藩に提出するように迫ったのでした。書付は十二坊だけではなく、浄専寺も同じ内容のものを仏護寺に届けています。浄専寺は十二坊ではないので、別に届けているのです。書付に記されているのは十二坊を仏護寺の塔頭だとする藩の捉え方を誤りだとするものです。つまりは藩を批判しているのです。そうしたものを藩に提出したなら、逆に罰せられることになります。

 

 仏護寺はとりあえず、書付を寺社奉行に届けました。寺社奉行は書付をみて、驚きました。奉行は書付を仏護寺に返し、内容を改めるように命じました。仏護寺は書付を十二坊側に渡しました。十二月十七日、十二坊の住持たちは、再度、書付を仏護寺に届けました。届けられた書付は文字がわずかに改められただけで、内容は同じものでした。そのため仏護寺は、書付を受け取りませんでした。そこで十二坊の住持たちは、翌十八日、書付を、直接、寺社奉行に届けました。しかし、寺社奉行も、藩の命令に背くようなものを藩に提出すれば、どのような処罰が下るか分からない、といって書付の受け取りを拒否しました。

 

受け取りを拒否されたことから、十二坊の住持たちは、そのまま書付を郡奉行のもとに届けました。寺社奉行は寺社行政を担当する奉行ですが、郡奉行は地方行政を担当する奉行です。年貢の徴収や犯罪人の裁判などを行ないます。書付を受け取った郡奉行は、この書付をしばらく預かるといいました。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

PAGETOP