【八十六】 「参入の理由 その二」 ~いくつもの要因~
2019.08.27
蓮教上人が本願寺に参入した理由は古くからさまざまなことがいわれてきましたが、現在にあってもいろいろなことがいわれています。
佛光寺の門末が相次いで本願寺に参入していったため、蓮教上人はそれを追って本願寺に参入したのだとか、蓮教上人と常楽寺蓮覚の娘、如慶尼との結婚を蓮教上人の本願寺参入前のこととみなして、本願寺の一族である常楽寺蓮覚の娘と結婚したため蓮教上人も本願寺に参入したのだとかいったもので、それこそいろいろなことがいわれています。
こうしてさまざまなことがいわれるのも、蓮教上人が本願寺に参入した理由だと断言できるものがないからです。はっきりとした理由があるのならいろいろにいわれることはありません。
蓮教上人が本願寺参入した理由ははっきりとはしませんが、このはっきりとしないということは、いまとなってははっきりとは分からないということではなく、当初からはっきりとはしていなかったのではないかと思われます。蓮教上人が本願寺に参入したのにはいくつもの要因があり、それらが積み重なって参入したのだと思います。一つの明確な要因というのではなく、いろいろな要因があったと思うのです。
要因としてまず挙げられるのは、山科での興正寺の再興ということです。佛光寺の堂舎は応仁の乱の戦火によって焼失します。蓮教上人が佛光寺を継いだのは焼失後のことであり、蓮教上人が住持をつとめている間も堂舎が再建されることはありませんでした。蓮教上人が佛光寺の住持をつとめたといっても、その間、佛光寺には堂舎はなかったのです。
佛光寺の堂舎が再建されないうちに、本願寺は山科に移って、山科に本願寺の堂舎を建立します。山科は了源上人が興正寺を建てた地です。山科が興正寺の旧跡の地であることは本願の関係者にも強く意識されていました。蓮教上人が山科を興正寺の旧跡地として意識していたのは当然のことであり、山科の地には相当に深い思い入れをもっていたものと思います。
堂舎が焼失したままであったことからするなら、寺の再建は蓮教上人の念願であったはずです。山科での興正寺の再興は、佛光寺にのこった人たちからみれば別の寺の建立ですが、蓮教上人に従った門末からみれば自分たちの本寺の再建です。蓮教上人による興正寺の再興は、山科に興正寺を再興するというかたちで寺の再建をはかったものとみることができます。山科に興正寺を再興するということが、蓮教上人が本願寺へ参入する要因の一つであったことは疑いありません。
その山科興正寺の再興に大きく関わっているのが、蓮如上人の長子、順如上人です。順如上人は蓮如上人と蓮教上人の間に立って、二人を仲介した人です。蓮教上人の本願寺への参入はこの順如上人を介してなされましたが、参入後にあっても順如上人は蓮教上人に対する助力を続けます。蓮教上人は常楽寺蓮覚の娘、如慶尼と結婚しますが、如慶尼は、一旦、順如上人の養女となり、その上で蓮教上人と結婚します。順如上人は蓮教上人の養父ということになります。養父であれば後見役をつとめるのは当然ですが、如慶尼を養女にしたのは順如上人の側であって、順如上人は自ら進んで蓮教上人の後見役を買って出たということになります。こうした順如上人の態度からいって、山科の興正寺の再興には、順如上人から相当の援助があったとみなくてはなりません。順如上人は蓮教上人の本願寺参入後、程なくして亡くなりますが、自分の没後にあっても、蓮教上人に援助が続くような配慮を加えていたものと思います。
こうして順如上人が蓮教上人への助力を惜しまなかったのは、順如上人が蓮教上人の本願寺への参入を仲介したからですが、加えて、蓮教上人の参入前から順如上人が蓮教上人に本願寺への参入を強くはたらきかけていたためもあって、助力を惜しまなかったものと思われます。順如上人は早くから佛光寺の門末の本願寺への取り込みをはかっていましたが、門末だけではなく、蓮教上人に対しても、かなり強く、本願寺への参入をはたらきかけていたものとみられます。
順如上人はまさに蓮教上人を本願寺へと誘い、本願寺へと受け入れた人です。蓮教上人も順如上人には信頼を寄せていたようで、蓮教上人の本願寺への参入は順如上人がいたからこそなされたともいえます。参入の要因ということでいえば、この順如上人の存在もまた参入の一つの要因です。
(熊野恒陽 記)